私のコトバ

自分の内なる声をコトバにして記録します。

2021.4.2 【テレビ番組】自分にとって、なせ面白いか

WOWOWで大好きな番組「プロジェクトランウェイ」の放送が始まった。

ファーストシーズンから始まり、現在シーズン2の途中を見ているところ。大好きな番組だ。

なぜ面白いか。

リアルな闘いに中に起こる、リアルな人間関係。個性豊かなデザイナーたち一人一人の個性が浮き彫りに、なり、人間性が見える。デザイナーとしての才能を競うものだけれど、デザイナーとしての才能の表れとして人間性も大いに入るモノだと私は思う。

デザイナーとしての才能、技術も見ていて楽しい。全くの素人ながら、感性の部分で、各デザイナーが表現しているものを自分なりにジャッジしている。感性が近いと感じるデザイナーもいれば、全く理解できないデザイナーもあり。そんなことを感じながら見ることができるのも、この番組が楽しくて大好きなところだ。

でも、最大の魅力は、なんと言っても、夢に向かって必死になっている人の姿をみられることなのだと思う。人生を変えたいと、極限状態に追い込まれながらも、全身全霊で取り組んでいるデザイナーたちの姿に感化されること。自分にない部分、必要な部分を、この番組に感じ取っているからなのだと思う。

見た後で「私も頑張ろう」と思わせてくれるところ。それがリアリティショー「プロジェクトランウェイ」の、私にとって最大の魅力なのだと思う。

 

2021.4.1【新聞より】体験から学ぶ、ということ

2021年4月1日朝日新聞より

2つの記事を読み、共通していると感じたことは、「体験から学ぶ」ことの重要性だ。

【ビジネス英語の極意】

長きにわたってNHKラジオ語学講座「ビジネス英語」講師を務められた杉田敏さんは「ランチで雑談できる力」がビジネス英語(と言われる英語力)として必要であり、「外国語は恥をかいた回数に比例して上達するものです」と述べられている。

【学び始める春 失敗を楽しむ】文筆家・ゲーム作家の山本貴光さんの寄稿。

子どもの頃、パソコンのプログラミングに興味を持ち、何度も間違いをしながら修得していったことについて書かれている。気になることに取り組む、効率などを考えず、「もっとやってみたい」につながり、続けることで深く学ぶことができたという。失敗しながら学ぶには、自分の失敗を認めることができることと、失敗できる安心の場が必要であることを、失敗から学ぶために必要なこととして述べておられる。これは体験学習の基本の部分であり、場づくりをするファシリテーターに求められる、安心・安全の場を保障することに通じるところだ。

「体験学習」というものを私は学んできている。経験学習の理論に通じるものと言ったほうがピンとくる方が多いかもしれない。自分自身、この学び方がとてもしっくりくるし、それでないと自分が覚えられない(身につかない)ことを実感している。体験を通して学んだこと、身に付けたことは、忘れにくいものだ。つまり、身につけやすい学び方なのである。

今朝の新聞を読み、改めて、体験から学ぶことの大切さと、その必要性について伝えていきたいと感じた次第である。

 

2021.3.31【映画】「私はダニエル・ブレイク」

第69回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。

イギリスの社会保障の制度と貧困の現実を描いている。

心臓が悪く、仕事を止めざるを得ない主人公ダニエルが、支援制度を受ける手続きのためのヒアリングを受けているところから始まる。心臓が悪いにも関わらず、四肢の不自由の有無を尋ねる質問を、項目に沿って聞かれるのである。「心臓のことをきいてくれ」と訴えるダニエルに、「そんな態度では受給許可がでないですよ」と言う担当者。

行政による保障制度、どこの国でも似たような理不尽さを感じるものなのだと、まず思った。実直に生きている人が守られない保障制度なんて、なんの意味があるのか。

かなり我慢強く、理不尽ながらも行政の指示に従い、使ったことのないパソコンでの申請や、履歴書を書くこと、職探し、面談と、努力を続けるダニエル。しかし、彼の努力などを微塵も評価せず、ルールにあてはまらないことを責め続ける役所の職員。そんなことの繰り返しで、当人が必要としている支援は何も受けられない。

昔気質のダニエルは、苦しいと弱音を吐くことができなかったが、親切にしてあげたケイティ親子の助けを受け容れるに至った。娘のデイジーがダニエルの家を訪ね、ようやく顔をだしたダニエルに向けて言う、「ダニエルは私たちを助けてくれたのよね?」「そう思うよ」とダニエル。「今度は私たちがダニエルを助けるよ」。一人っきりのダニエルが、友人の差し伸べた手を取ったこの場面は、目頭が熱くなった。

素の人間の、互いを思いやる心の行き交いと友情に対する温かいものと、社会が作る支援という名の非人情的な仕組み、人間社会のリアルさを突きつけられた。ダニエルの葬儀の際、読み上げられたダニエルの申告は、人間としての叫びである。

「人間の尊厳」改めて、そのことがいかに大切かを感じさせられた。

 

 

自己とは何か

「書きたい」私は書き方がわからなくて、ずっと彷徨っている。

なんとかしたいともがく。もがいてみれば、手をあちこち探ってみれば、何かしらが手に当たる。「手応えがある」のだ。

長い間、暗闇を彷徨ってきたけれど、光がだんだん大きくなってきた気がする。

 

若松先生(若松英輔氏)の「あなたにしか書けない文章」「自分のことば」ということば達が、私の背中を押してくれた。

「書いていいんだ」。

 

「事象・事物と自分自身との間に存在する距離や方向をデータとして積み重ねていく」(村上春樹『自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方について)』より)を読み、「書く」ことの本質がストンと自分に落ちた。

「私は書ける」。

 

「書こう」。

私が最も興味を持つ「自分」を知るために。

最も関心がある「自己とは何か」について語ることを、私はやりたいのだ。

 

大人って

大学院の集中講義授業に参加させてもらった。

社会人がほとんどの専攻なのだが、学部からストレートで入ったという彼女。

最初、参加メンバーで円座を組み、延べ4日間を共に過ごす仲間に向け、簡単な自己紹介をする。

先生に次いで、学生のトップバッターだった彼女は、簡単に名前と学部上がりだということ、就活の最中だということを話した。後の「大人」たちが一通り自己紹介を終えたところ、先生が「あと、付け加えることありませんか」と、彼女にバトンを渡した。

ここで彼女にバトンを再度回した先生はさすが!という思いもあったが、彼女がちゃんとそれを受け取った姿が素敵だった。戸惑いながら、ぎこちなく受け取ったバトンを自分の手中に納め、しっかりと握り直したかの如く、彼女はこう応えたた。

「ここにきて(この大学院に入って)思ったのは、いろんな大人がいるんだ、ということが分かったこと」

ズバリ本質を突き語られた本音だ、スゴイ!

そう思った。

この大学院に入り、いろんな大人と出会い、彼等彼女等と知り合う自分の体験を通して、自身が持つ「大人」の概念が変わったということを彼女は語ったのだ。

 

 

コトバの教室

「書いてみてください」「書き続けてください」
先生はいつもこう言われる。
その言葉に後押しされ書き始める。書き始めるけれど、終結まで至れない。
自分の中にいろいろ渦巻くモノをコトバに紡ぎ切れないのだ。思考や感情、湧き出でてくるモノをコトバに乗せるには、手のほうの作業が追い付かないのだ。加えて、追いつかなかったところを補おうとすると、余計なモノがくっついてしまったり、逆に落ちてしまい足りなくなったりしてしまう。

そんなふうにモタモタしていると、「今」はとっくに過ぎさってしまい、書きたかった気持ちはどこかに置き去られてしまう。

そういうことが何度も続くと、書くことを諦めてしまいそうになる。でも書きたいのだ。
その葛藤の繰り返しをすることが、書くことのトレーニングなのだろうと思う。
書きたい気持ちが上回り、それを行動に移すことができ、そして終結まで至ることができれば、どんなに幸せなことだろうか。

そう書いている今、自分の書きたい方向から徐々にズレていることを感じつつ、なんとか終結に向かわせようと、強引な自分が在る。
やや強引かとも思ったけれど、案外そうでもなさそうだ。
私の「書く」ことの今。

「孤独」について

ちょっと前に書いたものが出てきました。
「何かの呼び合わせかも」と感じ、新しいブログ初投稿として。

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  月1回のペースで行っている学習会(Commu-Lab 主催 コミュ・カフェ http://commu-lab.jimdo.com/参照) でキーワードとなった「孤独」について。
 今の私は孤独に対してこう考える。「人は最終的に孤独な生き物である」と。

 孤独を感じる人と、孤独という概念をこれまで意識したことがなかったという人がその場にあった。いわゆる「人が好き」を自覚する人は、人恋しいと思う気持ちを持っていたり、その気持ちを満たすことに少し困難があったりする場合など;例えば「誰かとお茶でもしたいな」なんていう気分のときに誘う相手が見つからない、 というような場合に孤独を感じるという。この例えを聞いて、「孤独を感じることがある」という人は大きく頷き、その話しに共感しているようであった。一方、孤独を意識したことがなかったという人の場合、"孤独を感じる"ということ自体がよく理解できないとのことであった。彼は自分が孤独の概念から随分遠かったことに衝撃を覚え、これについて考えてみたいと言う。

 かつて私は人好きな、常に人恋しさを抱いている、人といることを好む人であった。というと、今はそうでないようにきこえるかもしれない。今はかつてのままの部分もあり、そうでなくなった部分もあり、人と一緒にいることに対して自分の気持ちの使い分けをしている、使い分けができている、そんな感覚を自分は持っているようである。自分に自由な時間ができたとき、「誰か相手してくれる人いないかな」と思う自分がいる。かと思えば、その「誰か」が誰になりそうかを考えると、一緒にいることを億劫に感じるであろう自分がそこに居ることに気付いている自分がいる。この数年間、人とのかかわり、人間関係、コミュニケーションといったものを深く学んできた。そのおかげで人恋しい自分と、「誰か」によって億劫さを感じるであろう自分があることを、今の私は知っている。こんなことを考えると、随分自分に正直に在れる自分になったことを実感できる。

 先の彼に戻る。その場にいた多数が「孤独を感じる人」であり、彼だけが「孤独を感じない人」であった。人は自分が小数派であることに気づくと「自分は間違っているのではないか」という思いに駆られがちである。彼の場合もそうした思いが働き「考えてみる」と言ったのかもしれない。その時はこのことに関して特に何も思わずそのまま流してしまったが(ファシリテーターとして不徳の致すところ・・・なぜ一言声をかけられなかったかのか!)、後になって思う。彼は自分に正直に生きているから孤独を感じることがなかったのではないか。孤独そのものとして生きてきたからこそ、孤独を感じることなくこれまできたのではないか、そう思えてならない。私自身について先に少し述べたが、これは私の人としてのある部分の成長を意味するものである。かつての私は人とのかかわり、接触などがないことに孤独を感じていたが、今感じる孤独は全く別のものとして自分に存在する。自分に正直に在ることを突き詰めていくと自分が「孤独」であることを思い知らされる。思い知らされる、というとネガティブなものにぶち当たったかのように聞こえるが、正にそうなのだ。孤独、独り、そんなことに対してネガティブなイメージを抱いている人は多いのではないだろうか。友達がいない、仲間がいない、そんなイメージが孤独にはついて回る。確かにそのような状態の孤独も実際に存在はする。しかし孤独とは人が人として生きていく上でとても大切なことである。自分を自分として受け入れ、自分に正直になるとやはり孤独なものである。かつて人恋しさでいっぱいだった自分。人は孤独なんだ、ということを受け入れられるようになったら、とても楽なのだ。 
 
 時を同じくして孤独についての記事が目にとまった。2012年7月19日付朝日新聞に掲載された『いじめを見ている君へ』の中で舞踊家の田中泯氏はこう述べておられる。「協調性ばかりが求められる世の中だけど、僕は孤独が大事だと思う。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。」
 
 「誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいる」
 独りきりの部屋で自分の想いを書き綴っている私。
 本当の自分で在ることに対しての私の取り組みの第一歩。
 「孤独」について書くことから。

2012.7.20