私のコトバ

自分の内なる声をコトバにして記録します。

「孤独」について

ちょっと前に書いたものが出てきました。
「何かの呼び合わせかも」と感じ、新しいブログ初投稿として。

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  月1回のペースで行っている学習会(Commu-Lab 主催 コミュ・カフェ http://commu-lab.jimdo.com/参照) でキーワードとなった「孤独」について。
 今の私は孤独に対してこう考える。「人は最終的に孤独な生き物である」と。

 孤独を感じる人と、孤独という概念をこれまで意識したことがなかったという人がその場にあった。いわゆる「人が好き」を自覚する人は、人恋しいと思う気持ちを持っていたり、その気持ちを満たすことに少し困難があったりする場合など;例えば「誰かとお茶でもしたいな」なんていう気分のときに誘う相手が見つからない、 というような場合に孤独を感じるという。この例えを聞いて、「孤独を感じることがある」という人は大きく頷き、その話しに共感しているようであった。一方、孤独を意識したことがなかったという人の場合、"孤独を感じる"ということ自体がよく理解できないとのことであった。彼は自分が孤独の概念から随分遠かったことに衝撃を覚え、これについて考えてみたいと言う。

 かつて私は人好きな、常に人恋しさを抱いている、人といることを好む人であった。というと、今はそうでないようにきこえるかもしれない。今はかつてのままの部分もあり、そうでなくなった部分もあり、人と一緒にいることに対して自分の気持ちの使い分けをしている、使い分けができている、そんな感覚を自分は持っているようである。自分に自由な時間ができたとき、「誰か相手してくれる人いないかな」と思う自分がいる。かと思えば、その「誰か」が誰になりそうかを考えると、一緒にいることを億劫に感じるであろう自分がそこに居ることに気付いている自分がいる。この数年間、人とのかかわり、人間関係、コミュニケーションといったものを深く学んできた。そのおかげで人恋しい自分と、「誰か」によって億劫さを感じるであろう自分があることを、今の私は知っている。こんなことを考えると、随分自分に正直に在れる自分になったことを実感できる。

 先の彼に戻る。その場にいた多数が「孤独を感じる人」であり、彼だけが「孤独を感じない人」であった。人は自分が小数派であることに気づくと「自分は間違っているのではないか」という思いに駆られがちである。彼の場合もそうした思いが働き「考えてみる」と言ったのかもしれない。その時はこのことに関して特に何も思わずそのまま流してしまったが(ファシリテーターとして不徳の致すところ・・・なぜ一言声をかけられなかったかのか!)、後になって思う。彼は自分に正直に生きているから孤独を感じることがなかったのではないか。孤独そのものとして生きてきたからこそ、孤独を感じることなくこれまできたのではないか、そう思えてならない。私自身について先に少し述べたが、これは私の人としてのある部分の成長を意味するものである。かつての私は人とのかかわり、接触などがないことに孤独を感じていたが、今感じる孤独は全く別のものとして自分に存在する。自分に正直に在ることを突き詰めていくと自分が「孤独」であることを思い知らされる。思い知らされる、というとネガティブなものにぶち当たったかのように聞こえるが、正にそうなのだ。孤独、独り、そんなことに対してネガティブなイメージを抱いている人は多いのではないだろうか。友達がいない、仲間がいない、そんなイメージが孤独にはついて回る。確かにそのような状態の孤独も実際に存在はする。しかし孤独とは人が人として生きていく上でとても大切なことである。自分を自分として受け入れ、自分に正直になるとやはり孤独なものである。かつて人恋しさでいっぱいだった自分。人は孤独なんだ、ということを受け入れられるようになったら、とても楽なのだ。 
 
 時を同じくして孤独についての記事が目にとまった。2012年7月19日付朝日新聞に掲載された『いじめを見ている君へ』の中で舞踊家の田中泯氏はこう述べておられる。「協調性ばかりが求められる世の中だけど、僕は孤独が大事だと思う。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。」
 
 「誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいる」
 独りきりの部屋で自分の想いを書き綴っている私。
 本当の自分で在ることに対しての私の取り組みの第一歩。
 「孤独」について書くことから。

2012.7.20